『ザ・パワー・トゥ・ビリーブ』 キング・クリムゾン 2003年
前作から2年半、めずらしく同じメンバーでのアルバムでした。
バンドのコンセプトは同じく、ヌーヴォー・メタル。
硬質なサウンドを突き詰めていますが、これまでに不足していた静と動が生まれ、アルバムとしての奥行きが感じられます。
このコンセプトで展開した10年間の集大成とも言える、見事な完成度です。
1曲目、タイトルをつぶやくように歌う小曲に続いて、2曲目の『レヴェル5』では、早速ヌーヴォー・メタルが全開します。
これは「太陽と戦慄 パート5」とも呼べるようなギターサウンドで、このアルバムのハイライトでもあります。
3曲目の『アイズ・ワイド・オープン』は、ここしばらく封印されていた哀しみに似た情感を感じるボーカル曲で、エイドリアン・ブリューらしさが出ています。
4曲目の『エレクトリック』は、80年代から重視していたポリリズムが楽曲として到達したひとつの頂点でしょう。このアルバムのもうひとつのハイライトと言えると思います。
5曲目にアンビエントな時間を挟んで、6曲目『ファクツ・オブ・ライフ』はメタル・クリムゾンの流れのハード・ロック。
キング・クリムゾンの曲は、演奏は高速でも曲のテンポ感は速くないものが多いような気がします。
現代では速さと重さを両立するバンドが出ているので、このあたりはアーティストの年代的なものでしょうか・・・。
7曲目『パワー・トゥ・ビリーブ』は、70年代のキング・クリムゾンを彷彿とさせる即興的で幻想的な曲。こうしたアプローチは、ここ数年のキング・クリムゾンでは排除されていたので、このアルバムを特徴づけるポイントとなる曲と言えます。
8曲目『デンジャラス・カーブ』のようなミニマルでメタルな曲もまた、新しい試みではないでしょうか。繰り返される単調なリフと装飾的な音が絡まって、ラヴェルの『ボレロ』のような高揚感を築きあげます。もっとトランス・ミュージックのようになっても良かったのかもしれませんが、あくまでギターにこだわった作りです。個人的には、ポリリズムの反復よりも、こちらの方が好きです。
9曲目はこのアルバム4つ目のボーカル曲。狂ったギターと繰り返されるボーカル・フレーズに、エイドリアン・ブリューを感じます。しかし、なんで、これを入れたのかは疑問に感じます。(エイドリアン・ブリューに厳しくてスイマセン。)曲が悪いわけではありませんが、アルバムのカラーとは合わない感じがします。
最後に、またタイトル曲に戻って、アルバムは締めくくられます。
タイトルにもなっている『ザ・パワー・トゥ・ビリーブ』がアルバムの冒頭と中盤、ラストに配置されていて、「信じる力を取り戻させてくれた」と、”癒し”を自覚したことが歌われます。(ポジティブな歌詞で、なんだか驚きです。)
前作『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』の救いの無さに対して、このアルバムのタイトルからは、僅かながらの希望を感じることができるのです。
ただ、そこでの歌声は過剰にデジタル処理されていて、アルバム・ジャケットのようなマスク越しの音声なのか、21世紀の精神異常者がたどり着いた狂気の果ての脳内メッセージなのか、はたまた人間性を喪失した後に訪れる現代人の知り得ない地平で聴こえる声なのか、言葉の意味とは裏腹に、人間性を喪失した冷たい音として響きます。
死と再生を繰り返す生命にとって、そのひとつひとつの歓喜や絶望には大した意味はないのでしょう。大昔に滅びた恐竜や猿人が何を望んでいたかを現代の人類が知ることができないように、現代の私たちの想いを未来の生命が共有するとは限りません。
ここでつぶやくように歌われる「信じる力」に光を感じるとしても、それが現代を生きる自分にとっての救いなのかどうかは疑わしい。
届かない光を垣間見せられることで、自分を包む闇の深さを知り、より絶望してしまうかもしれない。
キング・クリムゾンが提示する世界は、どこまで行っても”スターレス”なのでしょうか・・・。
1969年から34年間、破壊と再生を繰り返しながらプログレッシブであり続けたバンドが、ついに終わりを告げたアルバムです。
このアルバム以降は、ライブに精を出して、創作は偶然性に頼り切っているようです。
アルバムが発売された年の来日公演は行きました。新しい曲が良く分からず、予習不足を後悔したような思い出があります。
今、改めてこのアルバムを聴いて、やっぱり惜しいことをしたと思わずにいられません。
投稿:2020.4.20
修正:2023.10.19
Photo by Jon Tyson on Unsplash