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『あのこは貴族』 ~ 希薄な存在からの脱出

映画・動画

2023年のGWに観たアマゾン・プライム・ビデオ

このGWは自室に籠って過ごします。
プライム・ビデオの「ウォッチリスト」に溜めたまま、観られないでいたものを観るのです。
もうすでに最新作や話題作では無くなってしまったものもありますが、観て良かったものについてコメントしておこうと思います。
鑑賞を検討されている方に、少しでも参考になればと思います。

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『あのこは貴族』2021年公開の日本作品

山内マリコによる小説の映画化作品です。
2021年公開ということは、コロナ禍の時期ですね。
最近になって、面白いという評価を耳にしたのが観るきっかけでした。

日本社会では”階級”というものは存在していないことになっていますが、そんなことは嘘で、現実的な階層や格差が存在することは、もう誰もが分かっています。
それでも表向きには”貴族”や”平民”という区分けは無い方がよさそうなので無いことにして生きています。
この映画では、そんな良識ある人たちの唱える”平等”なんてものは実際には無い、というところからスタートします。
この真っ当なリアリティの土台に乗せられた時点で、私の中では基礎点があがりました。
(なんか評論しているみたいですが、つまり気に入ったという意味です。)
そして物語はフィクションとしての面白さを増してゆきます。
約2時間が、あっという間でした。

以下、ネタバレを含みます。

物語の軸となる二人の女性

物語の主人公は二人います。

ひとりは良家の末娘、華子。
世間知らずでも困らないレベルに恵まれた、いわゆる”何不自由の無い生活”を送っています。
移動はタクシーがあたりまえで、良い教育を受け、高い教養やマナーも自然と身についています。
おそらく大学も幼稚舎から持ち上がりで入った”内部生(内部進学生)”です。
そんな箱入り娘ですから、人あたりは穏やかで、強い欲を持って何かを選択するということがありません。

裕福とは言っても、浮世離れしているほどではないので、普通に友人や恋人もいます。
ただ環境的に恵まれている人特有のものでしょうか、その執着心の無さから関係性は希薄そうで、失恋をしてもその悲しみは淡々としたものでしかありません。
ある意味でピュアな純粋培養ですので、コストを気にすることなく、自分の気持ちには素直で行動力もあります。

様子を観ていると、本気で生きている覇気が無く、状況に生かされているという体に感じられます。
年の離れた姉たちと違い、特別に体面を気にすることも無く呑気に生きていますが、20代後半に差しかかり、いよいよ結婚を考えなければなりません。
とは言っても、これも自分で強く望むというよりは、家族からの圧に流されている感じです。
さらにやっかいなのは、家族に無理やりに従わされて主体性が無いのではなく、生まれ育った環境の中で、自然にそういう人格や思考になっているということです。

無理解な親、お金はあっても愛情の無い家庭、というわけではありません。
誕生日やひな祭りはお祝いをし、節目には高級なレストランに集まって食事会をします。
この家族にとっての幸福感や愛情とは、こういうものなのです。

この華子を門脇麦さんが抑えた表現で見事に演じています。

もうひとりの主人公は、田舎の中下層クラスの出身ながら受験戦争を勝ち抜いて名門大学への入学を果たした美紀です。

自分自身の努力によって田舎から都会への脱出に成功した美紀でしたが、入学早々に”外部生”である自分たちと”内部生”との格差を感じます。
それは差別やイジメではありません。まとっている空気のようなものです。
現実的には、4200円もするアフタヌーンティーを日常的に楽しめる同級生との付き合いは笑顔が引きつってしまいます。

それでも学校という空間では様々な出会いもあり、それが新たな葛藤の種となったり、華子との接点にもつながってゆきます。
努力の結果手に入れた大学生活でしたが、美紀は家庭の経済的な理由から夜の街でアルバイトをするようになり、結局は大学を中退してしまいます。
彼女にとって大学進学は、何か大きな夢を実現する手段では無く、田舎から脱出する目的だったのかもしれませんが、そうは言っても残酷なことです。

都会の名門大学で感じたヒエラルキーでしたが、地元へ帰ってかつての同級生を見れば、そこには戻りたくないものも感じてしまいます。
地元で若くして結婚し家業を継いでいるような旧友にとって、都会で洗練された彼女はすこし違って見えたようです。
逆に都会の大学に通いきれず夜の街での仕事を経験することになった彼女は、地元で羽振りを利かす彼をどう見たでしょう。
それは気のせいだったでしょうか。
美紀は地元に帰ることはせずに、都会での生活を選びます。

美紀を演じているのは水原希子さん。セレブを演じても似合いそうな女優さんですが、ここでは役柄に合った演技をしています。

この二人の設定が物語の背骨になっているのですが、彼女たちを取り巻くそれぞれの友人と男性の配置が秀逸です。

人生を左右する、それぞれの友人

良家の華子と近い関係にある友人は、バイオリニストの逸子です。

経済環境的には同じレベルにありながらおそらく家柄としては名家では無いか、別の跡継ぎがいて家庭内での存在感が薄いのか、自分の考えを持って行動しています。
「経済的にも精神的にも自立がしたい」「女同士が自尊心を削り合うようなのは嫌だ」と語る彼女は、自らも含めた階層の存在に自覚的です。

風で飛ばされた誰かの帽子を拾って渡すくらいフラットな感覚を持つ彼女ですが、華子の彼を「私たちの家よりも上の階級だ」と言います。
親の職業などによる経済的な裕福さとは違う階級がある。つまり1世代でなんとかなる格差では追いつかない”階級差”もあるということです。
彼女の立ち位置に対して、華子は自分のいる階層に対する自覚さえありません。
自分の境遇を理解したうえで自分の生き方に問題意識を持つ逸子に対して、セレブらしさとは無縁で穏やかな華子のその無自覚さこそが傲慢だと感じる人はいるかもしれません。

石橋静香さんが安心感のある演技をしています。

美紀と同じ田舎から同じ大学への進学を果たした里英は、地元に帰れば会社経営者の父を持つミドルアッパークラスの家のひとり娘です。
経営者となる道を歩みながらも、都会での経験を活かして自分の人生を歩んでいます。

辛い境遇にある美紀を孤立させず、かといって安易な手助けもせず、友人としての距離感を保っています。
そばにいてくれることが安心を与えてくれるような存在で、登場シーンは少ないものの大切な役どころだったと思います。
大学入学後、友人とお茶を楽しむシーンでつぶやいた彼女の言葉が、物語のタイトルになっています。

演じているのは山下リオさん。
水原さんと並ぶと誰もがふくよかに見えてしまうのは仕方ないとして、その自然体な笑顔や佇まいがむしろ際だって見え、可愛らしく好印象でした。

最終的に主人公二人の人生を支えたのは、家柄ではなく、同世代の彼女たちでした。
この友人二人が上手く機能しているところが、物語のクオリティが高まった要因だと感じます。

何もしないことで物語を動かす男

そして、もうひとりのキー・パーソンが、美紀と関係を持ちながら華子にプロポーズする幸一郎です。
政治家の家に生まれ、名門大学卒業後は弁護士として働いているイケメン・ハイスペック男子ですが、彼は何が好きでどんな仕事をしているのかは描かれません。つまり、描くべきものが無いということが描かれているのです。

しかし、そんな彼の存在が登場人物を結ぶハブとなって物語は動き出します。
華子と同じく、環境に身を任せていても不自由の無い生活が送れている幸一郎にとって、結婚は人生の一過程でしかなく、相手を格付けし家系を保つことに執着する親族にも反発したりはしません。
逸子の「違う階級とは住みわけがされている」という言葉の通り、華子も幸一郎も自分の生きてきた世界の価値観に染まった世間知らずなのです。

タイミングと家柄が合った二人は、ぎこちない恋愛をしながら結婚へと進みます。
彼にとって、家を継ぐことは使命のようなものです。
名家に生まれ育ち、人の羨むような生活を送ることと引き換えに手にしたのは、引かれたレールを外れることができない選択肢の少ない人生でした。 
傍から見れば好き勝手に振舞っているようでいて、実は籠の中の鳥。
籠の中の鳥と箱入り娘の結婚話し、というわけです。
そしてこういう状況も幸一郎は親族から強制されているのではなく、自分の生きてきた世界の常識的な判断をしていると思っているのです。

最終的に幸一郎は、ひとりの女性を自分が幸せにできなかったことを背負いつつ、引かれたレールを歩み続けます。
この人の心を解することのできない(もしくはできなかった)幸一郎を演じたのは高良健吾さん。
品位を保った演技で、幸一郎を底の浅い悪者に貶めないことに成功しています。

この5人は同じ時期に同じ名門大学に通っていました。
ヒエラルキーが存在するとは言っても、ある意味フラットな学生の身分です。
大学時代に幸一郎は美紀との接点がありましたが、基本的に同じ学校に通いながらも別々に過ごしていた彼らの人生は大学を卒業した後に交錯します。

その内容は、映画でお楽しみください。

家父長制からの離脱

物語は最初から、この社会に存在する階層を、ただあるものとしています。
それを「悪い」とか「無くせ」などという主張を押し付けてはきません。
最終的には、古い家父長制的なしがらみから離れてそれぞれの人生を歩み出す女性たちを、暖かい眼差しで見つめて終わります。

物語の後半、祖父の他界を機に現実味を帯びてきた政治家への転身話しにもただ身を任せようとする幸一郎に、事前に聞かされていなかった華子は不信感を抱きます。
それは相手への信頼が失われたというよりも、自分の存在感の無さへの寂しさです。
そして続く祖父の通夜での出来事によって、漠然としていた気持ちが実際に自分の中にあるものだと気づかされます。
ぼやっと生きることでやりすごしていた”虚無感”は、確かにあったのです。
「私にできることがあったら言ってね」と話しかける華子に、幸一郎は「結婚してくれただけで十分だよ」と返します。
この優しくも絶望的な距離感が、彼女の中に芽生えてしまった気持ちを急成長させます。

美紀から別れを告げられた時に餞別と言って渡された彼女の地元の名産品を、幸一郎はおそらく食べなかったでしょう。
美紀との別れに胸は痛んだとしても、彼女の気持ちに寄り添うということは彼の世界には無いのです。

華子はここまで必要な役割を果たせています。そしてこの後、彼女に求められていることは、跡取りを生むことだったのでしょう。
階層も家父長制も身近にあった華子にとって、そういう世界は受け入れられないほど異質なものでは無かったはずです。
ただ、自分が単なる役割りを担う匿名の存在でいることに寂しさを覚え、その気持ちにリアリティを感じてしまったのです。
そして彼女は自分と向き合って現実を生きる決断をします。
ここで高いコストを払う行動に出られるところも、彼女の育ちの良さ故かもしれませんが。

相対的なヒエラルキー

物語の冒頭でヒエラルキーの上層にいると思っていた華子の家が、単に医者の家系でただの高額所得者レベルだと分かります。
見渡してみると、確かに華子の友人たちもそのレベルのようです。
美紀の階層にある仲間は東京では描かれておらず、近いのは地元の連中です。
しかし、そこでも彼女の話し相手は里英だけだったりします。

日本にある”階級”は、本来的なものではなく、あくまで相対的な言い方です。
下から見上げれば上ですし、上から見下ろせば下です。自分は常に板挟みです。

ところが、格差が大きくなると、この感覚はぼやけてきます。
また、三角形の頂点と底辺のように、上に行くほど仲間が少なくなり排他的になるようです。
見上げるにしろ、見下ろすにしろ、近い階層ほどよく見えるだけに意識します。
しかし、階層が離れると競争意識は希薄になって、憧れてしまったり、無関心になったり、自分とは違う世界に置いてしまうのです。
日本でこの問題が無視されがちなのは、大きな格差がある相手を理解し合うことが難しいからな気がします。

美紀の地元の仲間が幸一郎と友達になることはありません。
もしも関係ができるとしても、それは選挙の時くらいでしょうか。

存在の希薄さ

この映画の中で階級の違いは歴然と存在しますが、登場人物間の格差が対立として描かれることはありませんでした。
金持ちの子は親の金でタクシーに乗り、貧しい家庭の子はアルバイトをして学費を稼ぎ、自転車を漕ぐだけです。
自分の置かれている状況しか知らないなら、誰かを卑下することも羨むこともありません。
こうした状況を見せられても「金持ちが悪い」「貧乏は悲しい」という感情的な思考停止に陥らないで済んだのは、登場人物たちそれぞれをしっかり描けていたからでしょう。

階級差による残念さよりも彼女たちにとって問題だったのは、自分という存在の希薄さだったのではないでしょうか。
その問題から逃れるために、まずは家柄を重んじる家父長制度的なものから抜け出すことが必要で、それに気づいた時に彼女たちは迷わず行動します。
一方で幸一郎は、最後まで現状を顧みることはありません。

自分らしさの獲得

物語の終盤、美紀と里英は、学生時代のアフタヌーンティーを思い出し、”外から来た人がイメージする幻の東京”の話しをします。
黒いスーツでスタバのドリンクを手にして話す二人は、その幻を構成する都会人に見えますが、会話の中身はそんなことなのです。

さらにもうひとつ、華子と逸子のエピソードでは、郊外の施設で開かれる小さなコンサートが描かれます。
華子が会場に向かう車のハンドルを握って運転する姿や関係者と話す凛とした姿、本番前の笑顔、そして少し残る危なっかしい感じまで、非常に良い演技と演出でした。
逸子が幸一郎と華子が話している間だけそっとサングラスを外す良識的なところなど、細かな動きもキャラクターを表していました。

どちらのエピソードも、エンディングにふさわしく、後味の良いものでした。

『あのこは貴族』は、存在する階級や格差に対して異議を申し立てる映画ではなく、格差や家父長制的な価値観の中で存在感を殺している女性が、経済的・社会的な庇護を失ってでも、自分らしさを手に入れるという話しだと私は受け取りました。

どこにでも存在する力関係

私は大学時代、現代美術を学んでいました。
美術大学に集まっていた同級生は個性的な人が多く、経済的な格差は明らかに存在していました。
誰もが知るような企業の創業者の子や地方の名家の子と、作品を作る材料さえ揃えられない生徒が、肩を並べているのです。
表向き、ここでのヒエラルキーは良い作品を作るかどうかであって、お金があるかどうかでは無かったのは救いでした。
ただ冷静になってみれば、ある同級生の会社は教師の書いた本を出版していましたし、ある同級生の親は美術コレクターでした。
個展を開くギャラリーの画商と肉体関係を持ってしまう女の子もいました。

華子と逸子が協力していた「親子で楽しむ小さな音楽会」は、幸一郎の選挙区でした。
いやらしい話しではありますが、この小さなコンサートを継続するのにあたって、幸一郎の支援はプラスに働きそうです。

「親ガチャ」ワードへの批判


政治家の子は政治家、医者の子は医者という選択がしやすい不平等さは社会的な問題です。

「親ガチャ」という言葉が批判的に語られているのを見たことがあります。
親が金持ちかどうかが子供の人生に影響しているということに対して、裕福な親を選ぶことができなかった子供が「これは運であって、ガチャに外れたようなものだ」と言ったのが始まりではないかと思うのですが、これに対する批判的なコメントは理解に苦しむものでした。

「人生は自分で切り開くものだ」「親として責められて悲しい」などのコメントは、どれも大人の側が言っているようです。
この大人たちは、「親の経済格差は子供に影響しない」とも「影響しないようにするべきだ」とも言わず、子供の努力を求めるのです。

私はガチャという表現に、安い手動の販売機になぞらえたのは、状況の辛さに対する諦め感がユーモラスに表現されていると、むしろ気遣いのようなものを感じたので、大人たちの感情的な抵抗は意外でした。

本来なら、そんな軽い言葉ではなく強く不平等を訴えるべき子供が、冗談めかしてガチャだと言うことの悲しさこそを感じ取るべきではないでしょうか。
「毒親」は親の問題ですが、「親ガチャ」は親の問題ではなく社会の問題であり、格差社会の問題です。

「貧しくても努力して今の地位を築いた」というような競争を勝ち抜いた人の言葉に真実があるかのように感じるのは間違いで、そういう稀有な例があっただけで全体を代表してもいなければ平均的な現実でもありません。
努力して成功したとしても、そこで貧しくある必要は無いはずです。
でも、こういう自業自得論が政治家や資産家は大好きです。
それが正しかったり良い世の中を作るからではなく、自分の地位や財産を脅かさない意見だからです。

状況を変える前に自分自身を変えた女性たち

『あのこは貴族』から飛躍した話になってしまいましたので、もうお終いにします。

”何不自由の無い暮らし”とは何でしょう。
日々、経済的な不安の中にある私にとって、”お金に困っていない”というのは幸福感の上位にあります。経済的な問題があると、その先にある高次元の悩みにたどり着くことさえできません。
”何不自由の無い暮らし”が個人として本当に幸福かどうかも、なってみなければ分かりようがありません。

自分を守っていた家という経済的な自由を手放した華子は、ハズレの”親ガチャ”になりました。
この選択のツケは子供世代に影響してくるわけです。

でもこの映画を私は良い作品だったと締めたいと思います。
自らの人間性に気付いて、高いコストを払ってでも迷いなく行動した彼女たちを応援します。
脚本も映像は良くできていて、俳優が優れた演技をしていました。

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投稿:2023.5.6
編集:2023.10.23

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