2023年のGWに観たアマゾン・プライム・ビデオ
このGWは自室に籠って過ごします。
プライム・ビデオの「ウォッチリスト」に溜めたまま、観られないでいたものを観るのです。
もうすでに最新作や話題作では無くなってしまったものもありますが、観て良かったものについてコメントしておこうと思います。
鑑賞を検討されている方に、少しでも参考になればと思います。
『コーダ あいのうた』2014年フランス映画を2021年にリメイクした作品
日本で公開されたときに劇場で観ました。
地味ながら良い映画で、観終わってすぐに多くの人に鑑賞を勧めたくなりました。
過去に作られたフランス映画のリメイク作品であるということは、後から知りました。
そして昨日、『エール!』というオリジナル作品の方をプライムビデオで観て、やっぱり『コーダ』の方を再確認したくなって観直したわけです。
同じ題材であっても、設定や台本や撮影、演出、キャスト、衣装、音楽などで、出来栄えには大きな差ができることが証明されました。
世の原作者たちは、自分の作品が映画化されるときには制作者をよく見極めた方がよいでしょう。
これは、オリジナル版の映画を批判しているわけではありません。
オリジナルの『エール!』の感動があったからこそ、『コーダ』の制作者は”これをもっと伝えたい”という創作意欲がわいたのでしょう。
また、地域性や時代性による価値観の違いなどもあります。
世界標準的な価値観に合わせたり、逆にローカライズしたりすることで、オリジナルへの関心が高まるということもあるでしょう。実際に私はオリジナルを観たいと思い、そうしました。
『コーダ』は、オリジナルへのリスペクトが感じられる一方で、大胆に舞台やキャラクター設定を変え、台本を変更しています。
そして、それら変更した部分は全て、今の日本のオヤジ(私)にとっては”良くなった”と感じられました。
まさに、リメイクのお手本のような出来です。
『コーダ』は、聾唖の家族のもとに健常者として生まれた末娘ルビー・ロッシが、家族のために尽くしながらも自らの人生を生きることについて葛藤し、周囲の愛情に支えられて前に進む物語です。
以下、ネタバレを含みます。
物語の冒頭と登場人物(兄:年上)
舞台は港町。
一家は漁業で生計を立てていますが、生活は苦しく、仕事の条件は悪化するばかりです。
聾唖者の父と兄と一緒に早朝から船に乗る主人公のルビーは、港に帰るなり学校へ通います。
冒頭、ルビーが船の上で大声で歌っても、父や兄には聴こえません。
ここでまず、ルビーが歌うことが好きなのだということ、そしてなかなか上手いことが分かります。
さらに、そのルビーの歌のことを家族は知り得ないのだということも。
船を降りて早々に、聾唖であることが漁の取引高で不利に働いていて、ルビーが役に立っていることが示されます。
一方で父と兄が障がい者であることに臆していないことも伝わります。
オリジナルでは色ボケした弟だった設定を、家業を支えるために頑張っている兄に変更したことで、物語は深さを増します。
健常者である妹ができることを、父を継いで漁師になる覚悟があるにもかかわらず、兄はうまくできないのです。
兄は妹を家族の犠牲にしたくないと気遣うと同時に、両親が長男である自分よりも妹を頼りにしていることを淋しく思っています。
ここはあまり深掘りされていませんが、この兄の存在はオリジナルからの変更点としてとても良かったところだと思います。
学校で漁の手伝いに疲れて居眠りをしてしまうシーンで、オリジナルではスペイン語の授業でしたが、ここでは”基本的人権”に関する授業に変えられていました。
こういう小さなところでも、権利を学ぶより生活を支えて居眠りしてしまうという現実が描かれて無駄がありません。
物語の序盤と登場人物(親友・彼氏:同世代)
オリジナルで存在感を示す同性の友達は、ここでも登場します。
しかし、こちらはオリジナルに比べると存在感が希薄になっています。
学生であるルビーにとって友人の存在は重要ですが、『コーダ』では家族との関係にウェイトを置いて、同性の友人との友情に多くを割かないことで物語を締めています。
この同性の友人は、ルビーの兄を理解してくれる役割りを担い、映画に優しさと安心感を与えてくれています。
また、家族の障がいや仕事のせいで差別的な扱いを受けることもあるルビーが、決して校内で孤立してはいないことも示してくれます。
彼女との関係は深掘りされませんが、その存在はルビーの境遇に対していたずらな同情心を観衆に抱かせないという効果をもたらしていています。
登場シーンは少ないですが、実は重要で上手い配役だと言えます。
ラストシーンで最後にルビーと一緒にいるのも彼女でした。
この友人の設定変更も、私は気に入りました。
ルビーが淡い恋心をよせるコーラス部のマイルズにも若干の変更点が設けられました。
彼がキング・クリムゾン「Discipline」のバンドTシャツを着ていることから、この話は1981年代以降だと分かりますが、それはどうでもいいですね。関連性はありませんが、彼がギターを弾けるのも納得です。
二人の関係性は基本的に良好で、この恋愛話しに脱線しすぎることも避けられています。
女友達との関係と同じく、彼によってルビーがことさら不幸に描かれることがないようになっていますし、彼がルビーを支えられるだけの力が無い同級生の男の子であることも、ちゃんと設定が機能しています。
(コーラス部の選曲は先生の影響でしょうから古い曲でも納得できるのですが、ルビーが寝起きにクラッシュをかけたり、シャッグスを好きだと言ったりするので、80年代の話しなのかなと思って観ていました。でも、映画のラスト近くで設定は90年以降だと分かります。)
物語の中盤と登場人物(教師・両親:大人)
ルビーは、コーラス部の教師に歌の才能を見出されて、都会の音楽大学の試験を受けることを勧められます。
もちろん厳しいレッスンが必要となりますが、家族の生活を支えているルビーには時間がありません。両親はルビーのレッスンよりも生活が優先であり、それも仕方がないことのようでもあります。
ただ、それは本当にどうしようもないことなのでしょうか。
ルビーの叫びは家族には届きません。
小さな反抗心からルビーは気分転換にマイルズと出かけ、幸福な時間を過ごします。
しかし、その間に起こった事件が、家族の問題をさらに浮き彫りにします。
登場人物の中で興味深いのは、音楽教師のヴィラロボスでした。
非常にエキセントリックなキャラクターですが、基本的に善い人です。
この映画の中で最も良識のある大人と言えるでしょう。
オリジナルの俳優が魅力的だっただけに難しい役どころだったと思いますが、登場シーンから最後まで見事に演じ切っていたと思えます。
オリジナルでも印象的だった、入学試験に飛び入りして歌の伴奏をするところは、とても好感が持てるシーンです。
両親は粗野で、お世辞にも立派な大人ではありません。
障がいを持つことで卑屈に生きるわけでは無く、人間として自己主張することを恐れません。
ただ、その言動は健常者からみると奇異に感じられるところも多く、ルビーはいたるところで恥ずかしい思いをします。
障がい者に変なバイアスをかけずに描いたところは、オリジナルの素晴らしいところでしたが、ここでもそれは守られています。
彼らにとって”聞こえない”というのは日常であり、そうやって生きてきたのです。
両親を演じている二人は、実際に聴覚障がいのある俳優さんなのだそうです。
物語の後半と登場人物(主人公ルビー:高校3年生)
主人公のルビーは、自分の境遇のことは分かっています。
なにしろ生まれた時から家族は聾唖者で、彼女だけが健常者なのです。
遊び盛りの年頃だというのに、家の仕事を手伝って通訳もし、貧しい生活を支える責任感も持って行動しています。
境遇を恨むような考えは、これまで何度も反芻してきたことでしょう。
そしてすでに”自分は家族を守る”と決めているのです。
ただ、それは一方で家族から離れることへの恐れでもあり、言い訳の面もあるのです。
この問題を扱うにあたって、ルビーをことさら”境遇の被害者”として描かないことは重要だったと思えます。
辛い状況で表情を硬くする演技に胸が痛くなり、それだけに笑顔のシーンにはこちらも嬉しくなってしまいます。
物語は後半、ルビーの進学と家族のこれからを決めなければならない時期に差し掛かります。
兄やコーラス部の教師やボーイフレンドはルビーを応援していますが、最後には彼女が決断することですし、両親の同意が無ければ田舎の町からは出られません。
状況を分かりすぎているルビーは、家族と生きてゆく覚悟を決めています。
物語の終盤・聞くということ
そしてついに学生生活を締めくくるコーラス部の発表会の日が来て、物語は急回転します。
ここまでで、この映画の3/4が経っています。
時にルビーに寄り添い、共感し、応援しながら見守って、私はこれが聾唖者の家族を持った少女の話しだということを十分に理解しています。
しかし、ここで驚きの時間が訪れるのです。
私は素敵なお話しを楽しんでいただけで、”聞こえない”ということを少しも理解していなかったのです。
どうかこのコーラス部の発表会の部分だけは”ながら鑑賞”は止めて、集中して観てもらえたらと思います。
発表会が終わり家に帰ってから、ルビーの父親は彼女の歌を”もう一度”聴きます。
一度目は発表会場で目によって聴き、二度目は彼女に触れて身体で聴くのです。
おそらくルビーが生まれた時、彼はこうして彼女の鳴き声を聞いたことでしょう。
障がいを持っていても、子供を愛する気持ちは健常者と変わりはありません。
決して通訳として役に立つから愛しているわけではないのです。
この終盤のシーンが映画のクライマックスですが、ここからさらにダメ押しが用意されています。
物語は、入学試験が終わるまで幕を閉じるわけにはいきません。
入学試験の歌唱シーンはオリジナルでも感動的でしたが、『コーダ』では結果発表までの時間経過を挿入し、映画としてのクオリティを高めています。
歌われたジョニ・ミッチェルの『Both Sides Now(青春の光と影)』は、完璧な選曲でした。
もちろん原曲を知っているわけですが、彼女の歌は素晴らしいと思えました。
障がいはどこにあるものなのか
この映画は、障がい者とその家族を憐れむべき存在のように描かなかったことが秀逸でした。
健常者どうしであっても、コミュニケーションがうまくいかないことはいくらでもあります。
映画の終盤、ルビー父親が彼女を理解するために行うことを見ながら、”聞く”ことの大切さについて考えさせられました。
障害というものは特定の誰か一方が持っているものではなくて、人と人との間にあるものなのでしょう。
映画作りは上手く、細かな配慮が行き届いています。
辛かったり嫌な出来事は描かれますが、本当の悪人は出てこない、気持ちよく泣ける映画です。
人は辛い目にあった時よりも、優しくされたときの方が泣けてしまうものですから。
2023.5.6
Photo by patricia prudente on unsplash
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