マーティン・マクドナー監督の新作『イニシェリン島の精霊』を観てきました。
ひとり語りやテロップで状況説明をするようなことは無く、舞台設定や配役、セリフ、映像と音楽で表現してゆく、映画らしい映画でした。
おそらく今後、観る人が増えたり何らかの権威ある賞を受けたりする中で何度も再評価がされて、いつしか名作と位置付けられるようになるのではないかと思えます。
全体的には、地味で、暗く、低温で、思索的な作品です。
ロケ地の自然環境、対岸で繰り広げられている内戦、閉鎖的な島で暮らす人々、動物たちなど、映画で表現されているものはその細部にいたるまで熟考されて配置されているようです。
それぞれの意味を紐解いたり考察するだけで長文が書けそうです。
おそらく、映画好きの方による解説やレビューで確認できるようになるでしょうが、それでも難解に思えたり、様々に異なる解釈がされそうです。
思索が広がる様々な要素
私もいろいろなテーマで思索を巡らせました。
自分に残された時間に限りが見えてきたとき、残りの時間をどう過ごしたいと思うか。
還暦を前に、まさに主人公のひとりであるコルムと同じようなことを考えています。
自分のために生きてもいいはずだけれど、はたしてこれから本当に自分がしたいことは何だろうか。
残された時間で何をすべきかを思う時の焦り、後悔、諦め、そしてもっと良く生きたいという望み、、、。
”いい人”が必要な人だとは限らない。
「人という字は、ひととひとが支え合ってる」という言葉が名言のように言われていたことがありましたが、昔から違和感がありました。そもそも、ひとりで立っている象形文字だったはずですよね。
性格が良く、人に優しくできても、自分から行動せず何も生み出さない人がいます。
その人と一緒にいても1+1にならないのです。
大きな戦いと小競り合い。対岸の諍いと自分の摩擦。
今もこの世界では戦争が無くなりませんが、結局、ほとんどの人は当事者にならなければ心配するだけで何もしません。
そして残念なことに当事者になってしまったら、自分がどう努力しても解決できないこともあります。
さらに、いくつになっても心を乱されるのは人間関係のことなのです。
純粋であり、荒涼としている地と心。
背の高い木々も隠れることのできる建物もない小さな島。
閉塞感がありながら、逃げたり身を潜めることもできない。
自分と相手との関係性の中でしか生きる場所が無い。
因習は、それを必要とする人に対して、より大きく作用するのでしょうか。
多くの隠喩
他にも動物の隠喩やサブ・キャラの人間性、映像美や他の映画との類似性なども思いめぐらせるのですが、やはり一番心に引っかかったのは、主人公パードリックに対するコルムと他の人々の態度でした。
蘇った記憶
この映画を観て、忘れていた記憶がよみがえってしまいました。
おぼろげな記憶なのですが、後悔と懺悔の意味も込めて書き出してみます。
それは私が地方から東京の中学校に転校してきたばかりのことです。
その日たまたま帰り道が一緒になったクラスメイトの家に寄り道したのですが、そこで彼のお母さんから大変な歓待を受けたのです。
お母さんはとても嬉しそうに、息子が友達を連れてきたのは初めてだと言って沢山のお菓子を出してくれました。
転校間もなくて友人が少なかったとは言え、男子中学生としては親の過干渉な感じに辟易してしまい、適当にその場を取り繕って帰ってしまいました。
その後、彼とは学校で仲良くなることは無く、家にも再訪することはありませんでした。
「発達障害」という言葉は、自分の子供にその疑いが指摘されるまで知りもしませんでした。
自分の子供を通して、どのような症状があるかを学ばざるをえなくなりましたが、今思えば、私の子供時代に発達障害を疑われるクラスメイトは彼以外に何人もいたように思います。
決してその時の彼が発達障害であったとか、いじめにあっていたということを話したいのではありません。
仲間外れにした意識があろうと無かろうと、当時、私がしたことは消せませんし、彼が学校でどう感じていたかは分かりようがありません。
ただ今となって、あの時歓待してくれた彼の母親が、その後どういう気持ちになったのかを想像すると辛くなります。
彼の顔も名前も思い出せない、子供の頃の曖昧な記憶ですが、この映画を観たことで、私の中に隠していた小さな「デンジの扉」(「チェンソーマン」)のひとつが開いてしまったような感じがして、一日中気持ちがモヤモヤしています。
私は昔、普通の価値観を持つ人のような顔をして、誰かを明確な理由も無いままに遠ざけたことがありました。
その時の私は、指を切って自分を罰するどころか、私の態度で彼やその周囲の人がどういう気持ちになるかを想像することさえしませんでした。
映画の中で”良い人”として描かれる被害者であり加害者でもあるパードリックは、おそらく発達障害だったと考えられます。
そうは明示されないのですが、妹は分かっていますし、コルムは妹が分かっていることにも気づいています。
パブの知り合いたちも薄々感じているので、コルムがパードリックと親しくしていることを快く思っています。二人の間にトラブルが起こっても、急変したパードリックの態度を責めたりしません。二人の関係が危険な状況に至ってさえ、対岸で起こっている内戦を見るように、彼らは介入してこないのです。
パードリックが、そのある種の健全さから行うことは、実は相手のことを思いやる気持ちからではなく、自分が人から馬鹿にされず、相手から好かれるために身に着けた純粋な心の防護服なのです。
にもかかわらず、彼が彼であるためには、誰か他者が必要なのです。
なので彼はたとえ負の感情が占めたとしても、すでに関係を持った人のいる場所を離れることができません。
実際のところ、多くの島の住民も同じようなものでした。
ただ、読書を愛した妹と音楽への思いを再認識したコルムだけは違ったのです。
パードリックの最も近くで、最も彼を理解して心を寄せていた二人こそが、彼とは違って他者の存在なしで生きることができたのです。
中学校のクラスメイトにとっての私はパードリックでは無く、たまたまパブに居合わせた客のひとりでしかなかったでしょうが、それでも苦いものがこみ上げてきます。
もっと良い人生を歩めたらよかったのですが、もうどうしようもありません。
せめて思い出してしまったこの扉を閉めずに、残りの人生を少しでもマシなものにしてゆこうと思うのです。
最後に、
ネタバレですが、映画の興が冷めた点を4つだけ。
・身体を切断した後で、ああは動けないでしょう。SFか?
・草食動物が生肉を口に入れるかなぁ。しかも死ぬ?無理な感じ。
・動物の死骸はそんな重さじゃないよぉ。小さくたってロバだよ。
・どのタイミングで家を出て助かったん?どこから出たん?
ファンタジーはあってもいいけど、リアリティは欲しいなと。
良い映画だったので、誰かに反証して欲しい。
マーティン・マクドナー監督の他の作品は、こちらからも観られます。
もう少しすると、映画をシニア割引で観られるんだなぁ・・・。
配信やパッケージが出ていました。
投稿:2023.4.8
編集:2023.11.5
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