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『Ⅲ Sides To Every Story』 EXTREME

音楽

『スリー・サイズ・トゥ・エブリ・ストーリー』 エクストリーム 1992年

最初に書いておきますが、個人的には好きなアルバムです。
なんで最初に断りを入れたかと言うと、これ以降のコメントは、あまり高評価を表す言葉にならない気がするからです。

このサード・アルバムは、ロック・スターとして成功を手に入れた彼らが、何を思ったか、変に芸術性(?)に走った問題作です。
基本はハードロックなのですが、プログレやジャズ・ロックっぽいことがやりたくなったのでしょうか。
疾走感のあるシンプルなロックナンバーはありますし、ギターの音は歪んで、ヴォーカルはシャウトしています。
でも、「俺たちはそのへんのパワーコードでジャカジャカやってるロック・バカ達とは違うんだぜ」とでも言いたげで、曲の構成やコードのあて方、リズムや音の選び方など、作りがマニアックな感じになっています。

ギターが唸るロック・チューン以外に、ピアノがメインの曲やホーン・セクションが印象的な曲、ストリングスまで駆使したアレンジなどがあり、彼らの音楽性の広さが表現されています。
アルバムは全12曲、80分弱というボリュウムで、創作意欲やチャレンジ精神に溢れています。
アーティストとして作りたいものが作れるだけの成功も手に入れていました。
しかし、これらの中でロックしてない曲が、ことごとく いまひとつ なのです。

アルバムタイトルにある「3つの側面」というのは、「あなた」(1~6)「私」(7~11)「真実」(12~14)で、曲の作りも、ハードロック、アコースティック、オーケストラみたいに特徴付けされているようなのですが、ちょっと伝わりません。
コンセプト負けしていると言ったら言い過ぎでしょうか。

もしも本当にこういう曲を展開したいなら、ブランドX のようなメンバーを集めるとか、ゲスト・プレーヤーを招くとか、プロデューサーをちゃんと人選するとか、要するに、ヌーノ・ベッテンコートのソロ名義でやればよかったのにと思うのです。

ヌーノ・ベッテンコートのギターとゲイリー・シェローンのシャウトが聴けない曲は、どうしてもバンドとしての魅力に欠けてしまいます。
単純な音としても、ギター以外の楽器の音には個性が無い上に評価すべき点が見つかりません。
ソング・ライティングと演奏は素晴らしいのに、プロデュースが上手くいっていないということでしょうか。
言ってみれば、良いところも悪いところも、ヌーノ・ベッテンコートに帰属するわけです。

こうした兆しは、すでに前作にも見られていて、「When I First Kissed You」のような場違いな曲が、しれっと入り込んでいました。

エクストリームに求められていて、かつ実験的に許容されていたのは、アルバム内で言えば「Cupid’s Dead」のような曲だったように思います。
この曲は、高い技術で緊張感ある演奏を繰り広げながら、ファンキーなグルーヴ感でワクワクしながら聴くことができます。
決して耳馴染みの良いポップな作品ではありませんが、この方向性ならリスナーも納得できたのではないかと。

このアルバムがリリースされる直前、エクストリームにとって非常に重要なライブがありました。
ロンドンのウェンブリー・スタジアムで行われた「フレディ・マーキュリー追悼コンサート」です。
会場には7万人以上を集め、世界各国のテレビで中継され、DVDも発売されました。
(最近、クイーン映画のヒットで再注目されたこともあり、ブルーレイを買ってしまいました。)
このコンサートには、さすがに超が付くほどの大物アーティストが参加していたわけですが、そこに混ざって参加し、けっこうな尺でクイーンのメドレーを披露した若手バンドのエクストリームは、この時、莫大な観衆を魅了したと思えます。
世界中の幅広い世代のロックファンに名を売るのにこれ以上は無いという舞台で、彼らは見事にやってのけていました。
(この時のヌーノ・ベッテンコートのビジュアルは、もう少し何とかならなかったかと思いますが。)

最高のプロモーションがかかった直後、絶好のタイミングでの発売だったにもかかわらず、このサード・アルバムは売れませんでした。
クイーンと比較するのもアレですが、どうしても楽曲の魅力不足は否めません。
決してダメなわけでは無いのです。
でも、これがエクストリームの個性なのだと主張できるところまで達していません。

ヌーノ・ベッテンコートの音楽的才能が開花した半面、ロック・アーティストとしての華が咲きほこらなかった不完全燃焼の挑戦作です。


投稿:2020.7.27
編集:2023.11.4

Photo by  Daniel Mirlea – Unsplash

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